太宰府歴史人物 大観⑨ 太宰府と鎮西八郎為朝

太宰府と鎮西八郎源為朝

時は、平安末期、源平の争乱の始まりに一人の風雲児がいた。鎮西八郎為朝である。
為朝が太宰府で起居していたことを知る人は少ない。「保元物語」に記されている宣旨の中に、「源爲朝久住宰府、忽諸朝憲、成背綸言、梟悪頻聞、狼藉尤甚、早可令禁進其身、依宣旨、執達如件、」
為朝は源氏の武将、源為義の八男で、長兄は義朝、甥に頼朝、義経がいる。
その身長は、七寸ほど(二メートル十センチ)の大男、強弓の使い手で、傍若無人、兄たちにも遠慮しなかったともいう。十三歳の時、父為義に勘当されて、都を追われ豊後に移り、肥後の豪族阿曾忠国の婿おなる。鎮西八郎と称し、自ら「九州総追捕使」と号して、諸豪族と争乱し、九州のほぼすべてを平定した。しかし、久寿元年(1154)香椎宮の神人の訴えで、頭書の宣旨のとおり召還された。しかし、それに従わなかったために父為義が解官となったので、太宰府より従者二十八騎を率いて帰京した。保元の乱では、老齢の父為義は、為朝ら六人の子と崇徳上皇方の御所白河北殿へ参上した。一方、長兄義朝は多くの東国武士とともに後白河殿の守備にあたる。攻め寄せた平清盛の軍は撃退したものの、兄義朝の軍と戦って破れ捕らえられ腕の肘を外され、伊豆大島に流刑となり、生涯を終えたのである。

※天皇の命を伝える公文書