太宰府歴史人物 大観① 太宰府と坂本龍馬

太宰府と坂本龍馬

幕末、風雲急を告げる文久三年(1863)の政変で、京の都を追われ太宰府廷寿王印(西高辻邸)に滞在していた三条実美以下五卿には悲愴感が漂っていた。
頼みにした長州藩は、その後、蛤御門の変、下関戦争に敗れ第一次長州征討に対し降伏し孤立していたのである。

その長州を救うための「奇策」が薩長同盟だった。しかし、犬猿の仲といわれ薩長両藩を誰が説得するのか それを買ってでたのが、坂本龍馬 其の人だった。
慶応元年(1865)、尊皇派の三条公らの同意を得て、長州へ赴くべく、龍馬は街道を鹿児島より熊本、久留米を得て、この二日市より太宰府に入り 五月二十五日 三条公東久世公らに同盟の許しを請うた。五卿に薩長同盟を得たその時が 維新回天の歯車が動き始めた瞬間だったのである。

太宰府歴史人物 大観② 太宰府と西郷隆盛

太宰府と西郷隆盛

西郷隆盛が、変名を用いて大宰府に滞在した理由は、廷寿王院に閉居させられていた
五卿のもとで、維新回天の密議するため、あるいは、五卿を監視する幕府側の
諸藩兵の勃発を防ぐ任にあたっていたためである。その頃の話が、今に伝えられている。
手の外側に黒い煤がついているのに気づき、尋ねてみると
【今日二十五日は天神さまの縁日なので、昨日は夜通し、お灯明を焚いていたのだ。】
とその理由を答えた。この時、西郷は、自分の掌をくぼませて油を溜め、それに灯明をたらして、火を点じ、熱さをがまんして一晩中、天神さまに、維新成就を願っていたのである。

西郷の精神力の強さと相まって、天神信仰の篤さを教えてくれるエピソードである。
その後、坂本龍馬の仲介で薩長同盟が成立し、大政奉還から戊辰戦争、そして明治維新はついに成し遂げられたのである。

太宰府歴史人物 大観③ 太宰府と小林甚六郎

太宰府と大目付 小林甚六郎

江戸幕府の大目付で直参旗本の小林甚六郎一行三十余名が、慶応二年(1866)四月一日、第一次挑戦征伐勝利の威をかって、筑前二日市にやってきた。目的は、太宰府に滞在中の三条実美ら五卿を江戸に連れ帰ることだった。先ず、小林は、太宰府天満宮に参拝。
ついで、五卿に面会を求めるが、病身を理由に拒絶される。その後数回試みるが不調に終わる。

この幕府の姿勢に抗した薩摩は、黒田清隆・大山綱良ら三十五名の藩士と大砲三門で、五卿の起居する太宰府廷寿王院を守護する。
太宰府が緊迫した情勢の中にある時、幕府は、第二次長州征伐の挙に出たが、七月二十日小倉城は落城、敗戦は、決定的となった。
すると、二日市湯町の小林らが投宿する旅館の前で、薩摩藩士たちが大声で、
長い刀は 伊達には差さず 坂東男の首を切る と囃し立てる騒動が起きる。
八月十七日、ついに小林に五卿との拝謁が許された。小林は延寿王院の玄関で大刀を差し出し、座敷に入る時は脇差を襖の縁に置き、丸腰の体で五卿の前に進み出た。
三条公より、「京で投獄されている同士を速やか釈放するように。」と仰せつけられたという。
翌九月、大目付小林甚六郎は、幕命を果たすことなく博多港より帰路についたのである。

太宰府歴史人物 大観④ 太宰府と黒田如水(官兵衛)・長政

太宰府と黒田如水(官兵衛)・長政

黒田如水、長政ほど、性格や才能など様々な点でことなっている親子もめずらしい。
天下分け目の関ヶ原の合戦で、父如水は、天下を取るという野望のもと、俄仕立ての軍を編成し、九州で兵を挙げた。
一方、息子の長政は、徳川方にあって、大大名の地位を獲得すべく東奔西走した。
如水は、「この戦いは長期戦になる」とよんだが、皮肉なことに、息子長政の機敏な動きで、わずか半日で家康の勝利となったのである。
合戦の後、長政は筑前五十二万石を与えられた。ここに至って長政の計画は成功したといえるが、一方、天下取りを目指した父如水の思惑は息子長政の活躍でついに失敗に終わったのである。

豊前中津十二万石から筑前博多へ転封する時、如水の気は重かった。
その時、近衛信尹から筑前への栄転の祝い状が届いた。
「筑前国は在府に管聖廟があり、その領国に住いするあなたには幸せですよ」と言う文面があった。
福岡城築造中は太宰府天満宮の境内に小さな庵と井戸を造り移住した。
長政は、入国の後、検地を行い永い戦乱で荒れた天満宮の建物や祭事の復興に力を尽くし、連歌屋を創設するため連歌会所を再建した。慶長十八年、天満宮に二千石の社領を寄進し、その配分帳を与えている。
その配分帳の綴目には、長政があえて父如水の印判(SIME ON JOSUI)を押している。さらに、如水・長政父子は、中門・回廊・末寺を造営した。
その後、黒田家は 代々、天満宮を尊崇し、正月には太宰府に参詣し、連歌会へ出席するのを恒例とした。

太宰府歴史人物 大観⑤ 太宰府と大伴旅人

太宰府と大伴旅人

神亀(七二七)、奈良の都より太宰府へ着任した太宰師大伴旅人の目の前に、若くて美しい都城の条坊が広がっていた。それは、まさしく、「天皇の遠の朝廷」と称するにふさわしい古代都市の威容だった。旅人は、天智天皇四年(六六五)、大納言大伴安麻呂の長男として生まれた。
左将軍、中務卿、中納言、征隼人特節大将軍を歴任し、六三歳という高齢をもって、太宰師に任命された。妻の大伴郎女、長男の家持ちの子供に、一族家人を伴っての大転勤である。

この時、太宰府には、小野老が太宰小弐、山上憶良が筑前守、そして沙弥満誓が造観世音寺別当として赴任していた。そこに、旅人を迎えることによって、太宰府に後世、筑紫花壇と表されるほどの華やかな万葉の文化が華開いたのである。
筑紫路文学は、ここに始まった。しかし、旅人は着任後間もなく、最愛の妻郎女を病気で失った。
また、一方、都では、天兵元年(七二九)、左大臣の職にあって、藤原氏の勢力を抑えていた長屋王が、謀反の疑いをかけられ自殺させられるという事件が起き、続いて藤原不比等の娘が、天皇の皇后に初めてなった。これらの事件は、藤原氏による政権の独占を意味する反面、大伴氏などの古い豪族の没落を誰もが感じていた。

実は、旅人が太宰府へとうざけられたのも 藤原氏の計略のひとつだった。
しかし、この太宰府は都に対し、「天ざかる鄙」という自らの立場を一貫させていたのである。
旅人は、庭に梅を植え、それを詠じるという中国の文化をいち早く取り入れた。天平二年正月十三日に旅人の館で開かれた梅花の宴には三三人の官人が招かれた。
「わが苑に梅の花散るひさかたの天より雪の流れくるかも」 そして、次田の湯では、
「湯の原に 鳴く蘆鶴は 我がごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く」とひとり歌っている。
天平二年一二月、大納言に任せられた旅人が都へ帰ることとなった。一世を風靡した筑紫花壇も三年で幕を閉じた。あれほど望郷の思いに駆り立てられた旅人もいざというと、太宰府を去り難く、別れにあたって、涙する。見送る人々の中には遊女児島の姿もあった。
「丈夫と思へるわれや 水茎の 水城の上に 涙拭くなむ」
万葉集二〇巻の編者として、日本文化史上に不朽の業績を残した人である。

太宰府歴史人物 大観⑥ 太宰府と菅原道真

太宰府と菅原道真

廷喜三年(九〇三)、古代きっての学者政治家菅原道真は、配所の太宰府南館にて逝去した。その遺骸は、京より追従した門弟味酒安行によって東北をめざして運ばれたが、その牛車が突然動かなくなった。生前、道真は、自分の遺骸は牛の止まった処に埋葬するように、京に帰ることは望まぬ、と安行に遺言していた。その二年後、太宰府政庁よりの許しもあって、安行は道具の威徳をしのんでし祠廟を建てた。これが太宰府天満宮の始まりである。

菅原氏は、古代豪族土師氏を出自とする。道真の曾祖父古人が、土師を菅原と改姓するとともに、文道をもって朝廷に仕える家柄となった。時代は、嵯峨天皇の御世を頂点として「文書経国」が国の根幹とされ、唐風の文化の最盛期を迎えていたのである。
道真は清公、是善と続く文章博士の道統に生まれた。母は、小納言伴(大伴)善績の娘である。
わずか五歳で和歌を詠み、10歳を過ぎて漢詩を創昨し、神童と称された。十八歳で文章生、二十三歳で文章得業生、二十六歳でついに方程式に合格した。三十歳の頃、島田宣来子を妻に迎え、三三歳で式部少輔、文章博士となり、学者としては最高の栄進を続けた。一時、讃岐守という地方官へ廻されたが、そこで、むしろ慈父のごとき善政を行い住民に慕われた。京へ戻ると宇多天皇の厚い信任を受け、蔵人頭などの政治の中枢に参画する。五十歳の時には、唐の国情不安と文化の衰退を理由に遣唐使停止を建議し、唐土に渡ることはなかった。

そして、五五歳で右大臣、そして、ついに、延嬉元年一月七日、藤原時平とともに従二位に叙されたが、その直後、急転して太宰府左遷となる。この時代、国史上例を見ないほど、学界と政界とが深く結びついていた。それは、「文書経国」によるものだったが、一代にして天皇の外戚まで昇進した妬みと、政治家であるまえに実直な学者であったことが合まって、悲運の最期を迎えたといえよう。一方、太宰府では、左遷というより配流に近い窮迫の日々を送りながらも、ひたすら謹慎し、天判山(天拝山)で祈祷する以外、配所から一歩も出ることはなかった。
劣悪の環境のなかで健康を損ない、道真を京で待っているはずの夫人の死去の知らせが届くと、ますます病は重くなり、延喜三年二月二十五日、白梅の花びらが散るように亡くなったのである。

遺骸は、門弟の味酒安行によって、太宰府の東北の地に埋葬され、太宰府天満宮が創建された。
その後、朝廷でも罪なきことが判明し、人から神の御位に登り、天満天神として朝野の崇敬をうけた。
わが国で、はじめて、学問を体系化して研究した人で、厳しい学究と至誠の人といえる。

太宰府歴史人物 大観⑦ 太宰府と鑑真

太宰府と鑑真

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【戒壇院】と彫られた石柱から、まっすぐのびた小道を進むと古い門があり、その傍に「不許酒葷肉入境内」と書かれた禁制の石碑がある。その寺院は、天平宝字五年(七六一)に西の戒壇として、観世音寺境内の西南の隅に建立されたものであった。
この戒壇院設置と深い縁りがあるのが鑑真和尚なのである。

奈良時代、聖武天皇の庇護の下、仏教は隆興し、頂点に達した。だが、一方、私度僧の出現や僧尼令を犯す僧侶が増加し、唐の仏教界の授戒制度が必要となってきた。
すでに、遣唐使で入唐求法していた僧普照と栄叡は、天平十四年(七四二)揚州大明寺で
戒律を講じていた鑑真を尋ね、授戒の師として日本への渡航を懇願した。
受諾した鑑真は、五回にわたり渡航を計画したが、唐の妨害や難破で失敗。天平勝宝二年(七五〇)の時には、栄叡が病没、鑑真も視力を失うと言う悲運にあったが、なおも伝教の意思を貫こうときた。
同五年十一月十六日、遣唐副使大伴古麻呂は鑑真一行をひそかに自分の船に乗船させ、蘇州を発した。そして、ついに沖縄を経て、鹿児島の防津に到着した。
その自ら学識とともに絵師、書家、仏師等を伴って、十二月二十六日、太宰府に着いた。
観世音寺さらに、次田の湯(二日市温泉)でその疲れをいやし、奈良へのぼる。

翌年、東大寺へ入った鑑真に勅使吉備真備は、「今後、授戒伝津はもっぱら大和尚に任ず」との孝謙天皇の意向を伝えた。
聖武上皇をはじめとする多くの僧尼に授戒し、東大寺大仏殿西方に常設の戒壇院を造り
さらに唐招堤寺も建立した。続いて下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に戒壇院を設け
天下三戒壇とした。日本仏教の基礎を確立した人である。

太宰府歴史人物 大観⑧ 太宰府と大江匡房

太宰府と大江匡房

大江匡房は、文章道の大江氏の嫡流に生まれた。父は、大学頭成衛、母は漢文学者の宮内大輔橘孝親の女で、曾祖母に赤染衛門かいる。幼少の頃より学才を頭し、二六歳で東宮学士に任じてより、後三条・白河・堀河天皇三代の侍読を務めた。

承徳二年(1098)、大宰権師として赴任。大宰府に入った匡房は、まずもって菅公廟、安楽寺(大宰府天満宮)に参詣し、終生、自らが文化の神として尊崇してやまなかった菅公の墓前に額ずいた。菅原家と大江家は、ともに先祖を天穂日命とする同族で、学問の家柄であった。そのこともあって匡房は、菅公の学問に対する情熱と精神を自らのものとすることを願っていたのである。その頃、匡房は夢で、菅公と出会う。
夢中の菅公は、昔、配所の生活を送られた榎寺への神幸を望まれていたという。
康和三年(1101)、天満宮の最大の祭りである「神幸式大祭」はこうして始まった。

同五年十一月十六日、遣唐副使大伴古麻呂は鑑真一行をひそかに自分の船に乗船させ、蘇州を発した。そして、ついに沖縄を経て、鹿児島の防津に到着した。
その自ら学識とともに絵師、書家、仏師等を伴って、十二月二十六日、太宰府に着いた。
観世音寺さらに、次田の湯(二日市温泉)でその疲れをいやし、奈良へのぼる。
翌年、東大寺へ入った鑑真に勅使吉備真備は、「今後、授戒伝津はもっぱら大和尚に任ず」との孝謙天皇の意向を伝えた。
聖武上皇をはじめとする多くの僧尼に授戒し、東大寺大仏殿西方に常設の戒壇院を造り
さらに唐招堤寺も建立した。続いて下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に戒壇院を設け
天下三戒壇とした。日本仏教の基礎を確立した人である。

太宰府歴史人物 大観⑨ 太宰府と鎮西八郎為朝

太宰府と鎮西八郎源為朝

時は、平安末期、源平の争乱の始まりに一人の風雲児がいた。鎮西八郎為朝である。
為朝が太宰府で起居していたことを知る人は少ない。「保元物語」に記されている宣旨の中に、「源爲朝久住宰府、忽諸朝憲、成背綸言、梟悪頻聞、狼藉尤甚、早可令禁進其身、依宣旨、執達如件、」
為朝は源氏の武将、源為義の八男で、長兄は義朝、甥に頼朝、義経がいる。
その身長は、七寸ほど(二メートル十センチ)の大男、強弓の使い手で、傍若無人、兄たちにも遠慮しなかったともいう。十三歳の時、父為義に勘当されて、都を追われ豊後に移り、肥後の豪族阿曾忠国の婿おなる。鎮西八郎と称し、自ら「九州総追捕使」と号して、諸豪族と争乱し、九州のほぼすべてを平定した。しかし、久寿元年(1154)香椎宮の神人の訴えで、頭書の宣旨のとおり召還された。しかし、それに従わなかったために父為義が解官となったので、太宰府より従者二十八騎を率いて帰京した。保元の乱では、老齢の父為義は、為朝ら六人の子と崇徳上皇方の御所白河北殿へ参上した。一方、長兄義朝は多くの東国武士とともに後白河殿の守備にあたる。攻め寄せた平清盛の軍は撃退したものの、兄義朝の軍と戦って破れ捕らえられ腕の肘を外され、伊豆大島に流刑となり、生涯を終えたのである。

※天皇の命を伝える公文書