太宰府と菅原道真
廷喜三年(九〇三)、古代きっての学者政治家菅原道真は、配所の太宰府南館にて逝去した。その遺骸は、京より追従した門弟味酒安行によって東北をめざして運ばれたが、その牛車が突然動かなくなった。生前、道真は、自分の遺骸は牛の止まった処に埋葬するように、京に帰ることは望まぬ、と安行に遺言していた。その二年後、太宰府政庁よりの許しもあって、安行は道具の威徳をしのんでし祠廟を建てた。これが太宰府天満宮の始まりである。
菅原氏は、古代豪族土師氏を出自とする。道真の曾祖父古人が、土師を菅原と改姓するとともに、文道をもって朝廷に仕える家柄となった。時代は、嵯峨天皇の御世を頂点として「文書経国」が国の根幹とされ、唐風の文化の最盛期を迎えていたのである。
道真は清公、是善と続く文章博士の道統に生まれた。母は、小納言伴(大伴)善績の娘である。
わずか五歳で和歌を詠み、10歳を過ぎて漢詩を創昨し、神童と称された。十八歳で文章生、二十三歳で文章得業生、二十六歳でついに方程式に合格した。三十歳の頃、島田宣来子を妻に迎え、三三歳で式部少輔、文章博士となり、学者としては最高の栄進を続けた。一時、讃岐守という地方官へ廻されたが、そこで、むしろ慈父のごとき善政を行い住民に慕われた。京へ戻ると宇多天皇の厚い信任を受け、蔵人頭などの政治の中枢に参画する。五十歳の時には、唐の国情不安と文化の衰退を理由に遣唐使停止を建議し、唐土に渡ることはなかった。
そして、五五歳で右大臣、そして、ついに、延嬉元年一月七日、藤原時平とともに従二位に叙されたが、その直後、急転して太宰府左遷となる。この時代、国史上例を見ないほど、学界と政界とが深く結びついていた。それは、「文書経国」によるものだったが、一代にして天皇の外戚まで昇進した妬みと、政治家であるまえに実直な学者であったことが合まって、悲運の最期を迎えたといえよう。一方、太宰府では、左遷というより配流に近い窮迫の日々を送りながらも、ひたすら謹慎し、天判山(天拝山)で祈祷する以外、配所から一歩も出ることはなかった。
劣悪の環境のなかで健康を損ない、道真を京で待っているはずの夫人の死去の知らせが届くと、ますます病は重くなり、延喜三年二月二十五日、白梅の花びらが散るように亡くなったのである。
遺骸は、門弟の味酒安行によって、太宰府の東北の地に埋葬され、太宰府天満宮が創建された。
その後、朝廷でも罪なきことが判明し、人から神の御位に登り、天満天神として朝野の崇敬をうけた。
わが国で、はじめて、学問を体系化して研究した人で、厳しい学究と至誠の人といえる。