太宰府歴史人物 大観④ 太宰府と黒田如水(官兵衛)・長政

太宰府と黒田如水(官兵衛)・長政

黒田如水、長政ほど、性格や才能など様々な点でことなっている親子もめずらしい。
天下分け目の関ヶ原の合戦で、父如水は、天下を取るという野望のもと、俄仕立ての軍を編成し、九州で兵を挙げた。
一方、息子の長政は、徳川方にあって、大大名の地位を獲得すべく東奔西走した。
如水は、「この戦いは長期戦になる」とよんだが、皮肉なことに、息子長政の機敏な動きで、わずか半日で家康の勝利となったのである。
合戦の後、長政は筑前五十二万石を与えられた。ここに至って長政の計画は成功したといえるが、一方、天下取りを目指した父如水の思惑は息子長政の活躍でついに失敗に終わったのである。

豊前中津十二万石から筑前博多へ転封する時、如水の気は重かった。
その時、近衛信尹から筑前への栄転の祝い状が届いた。
「筑前国は在府に管聖廟があり、その領国に住いするあなたには幸せですよ」と言う文面があった。
福岡城築造中は太宰府天満宮の境内に小さな庵と井戸を造り移住した。
長政は、入国の後、検地を行い永い戦乱で荒れた天満宮の建物や祭事の復興に力を尽くし、連歌屋を創設するため連歌会所を再建した。慶長十八年、天満宮に二千石の社領を寄進し、その配分帳を与えている。
その配分帳の綴目には、長政があえて父如水の印判(SIME ON JOSUI)を押している。さらに、如水・長政父子は、中門・回廊・末寺を造営した。
その後、黒田家は 代々、天満宮を尊崇し、正月には太宰府に参詣し、連歌会へ出席するのを恒例とした。