太宰府歴史人物 大観③ 太宰府と小林甚六郎

太宰府と大目付 小林甚六郎

江戸幕府の大目付で直参旗本の小林甚六郎一行三十余名が、慶応二年(1866)四月一日、第一次挑戦征伐勝利の威をかって、筑前二日市にやってきた。目的は、太宰府に滞在中の三条実美ら五卿を江戸に連れ帰ることだった。先ず、小林は、太宰府天満宮に参拝。
ついで、五卿に面会を求めるが、病身を理由に拒絶される。その後数回試みるが不調に終わる。

この幕府の姿勢に抗した薩摩は、黒田清隆・大山綱良ら三十五名の藩士と大砲三門で、五卿の起居する太宰府廷寿王院を守護する。
太宰府が緊迫した情勢の中にある時、幕府は、第二次長州征伐の挙に出たが、七月二十日小倉城は落城、敗戦は、決定的となった。
すると、二日市湯町の小林らが投宿する旅館の前で、薩摩藩士たちが大声で、
長い刀は 伊達には差さず 坂東男の首を切る と囃し立てる騒動が起きる。
八月十七日、ついに小林に五卿との拝謁が許された。小林は延寿王院の玄関で大刀を差し出し、座敷に入る時は脇差を襖の縁に置き、丸腰の体で五卿の前に進み出た。
三条公より、「京で投獄されている同士を速やか釈放するように。」と仰せつけられたという。
翌九月、大目付小林甚六郎は、幕命を果たすことなく博多港より帰路についたのである。