太宰府歴史人物 大観⑦ 太宰府と鑑真

太宰府と鑑真

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【戒壇院】と彫られた石柱から、まっすぐのびた小道を進むと古い門があり、その傍に「不許酒葷肉入境内」と書かれた禁制の石碑がある。その寺院は、天平宝字五年(七六一)に西の戒壇として、観世音寺境内の西南の隅に建立されたものであった。
この戒壇院設置と深い縁りがあるのが鑑真和尚なのである。

奈良時代、聖武天皇の庇護の下、仏教は隆興し、頂点に達した。だが、一方、私度僧の出現や僧尼令を犯す僧侶が増加し、唐の仏教界の授戒制度が必要となってきた。
すでに、遣唐使で入唐求法していた僧普照と栄叡は、天平十四年(七四二)揚州大明寺で
戒律を講じていた鑑真を尋ね、授戒の師として日本への渡航を懇願した。
受諾した鑑真は、五回にわたり渡航を計画したが、唐の妨害や難破で失敗。天平勝宝二年(七五〇)の時には、栄叡が病没、鑑真も視力を失うと言う悲運にあったが、なおも伝教の意思を貫こうときた。
同五年十一月十六日、遣唐副使大伴古麻呂は鑑真一行をひそかに自分の船に乗船させ、蘇州を発した。そして、ついに沖縄を経て、鹿児島の防津に到着した。
その自ら学識とともに絵師、書家、仏師等を伴って、十二月二十六日、太宰府に着いた。
観世音寺さらに、次田の湯(二日市温泉)でその疲れをいやし、奈良へのぼる。

翌年、東大寺へ入った鑑真に勅使吉備真備は、「今後、授戒伝津はもっぱら大和尚に任ず」との孝謙天皇の意向を伝えた。
聖武上皇をはじめとする多くの僧尼に授戒し、東大寺大仏殿西方に常設の戒壇院を造り
さらに唐招堤寺も建立した。続いて下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に戒壇院を設け
天下三戒壇とした。日本仏教の基礎を確立した人である。